終戦 若鷲の記憶 武蔵村山

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多摩地域では立川が軍都として広く知られていますが、
実は武蔵村山にも大規模な軍事施設がありました。
「陸軍少年飛行兵学校」は現在跡形も無く、
現地へ行っても、その名残を発見することはできません。
昭和十三年に創立され、終戦までに輩出された特攻隊員は、
四百五十余柱にのぼるとされています。
何れもまだ「紅顔の少年」達であったということです。

昭和22年少年飛行兵学校

昭和22年 国土地理院
終戦から2年経ち、校舎が解体されつつある少年飛行兵学校(現武蔵村山市大南)

少年飛行兵学校跡

平成20年 国土地理院 武蔵村山市大南付近
かつての構内の位置と石碑の場所

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紅顔の少年兵 死への鍛錬

訓練の厳しさは筆舌に尽くし難く、構内を移動するときは例え小用といえども、
必ず全速力の駆け足でなければならなかった。
これを聴いて「人権問題」を連想するのが現代人の性というものか、
誠にナンセンスな話で、彼らは「若鷲」などと呼ばれ、
祖国のために身を挺して玉砕することを、始めから運命付けられていたのです。
実は、私の母方の叔父もこの地で「少年兵」として訓練を受けていました。
訓練中に大怪我をしたのが幸いしたのか、特攻へ招集されることは無かったと聞きますが、
私はこの叔父から直接少年兵学校での日々について、
話を聞いたことは一度もありませんでした。
また、叔父の長男もまったく聞いたことが無いと言います。
怪我をした叔父を見舞いに、祖母と二人でそこを訪れた母の記憶によれば、
もう終戦が近かったためか、それとも武器弾薬同様に、
「紅顔の少年」も底を突いてしまっていたのか、
妙に人気が無いように感じたと言います。

揺籃の地石碑

閑静な住宅地にある「揺籃の地」石碑

揺籃の地石碑

プロペラを象ったマークは、特攻として散った少年達の魂を思わせる

揺籃の地石碑

記憶を記録として後世に伝える武蔵村山市

ゆりかごを巣立つ若鷲

閑静な住宅街の中に、やや不自然な印象さえ受ける石碑が建っています。
黒い石板の光沢は、それがまだ比較的最近のものであることを示しています。
上部に刻まれているマークは「プロペラ」。
「航空発祥の地」というようなものならば、近隣住民にとっても有難く、
誇らしさを感じることも出来ましょうが、
石碑に刻まれる文言は「揺籃の地」。
「揺籃」という言葉を調べてみますと、「ゆりかご」の意味と出ます。
さしずめ紅顔の少年達は、ゆりかごの中で死への旅支度をしていたというのか、
昭和二十二年の航空写真に見る施設の正門は、現在その面影は皆無ですが、
交差点の角に「東航正門跡」の石碑が建てられています。
兵学校出身者有志の方々で、これらの石碑を建立し後世に語り継ぐため、
武蔵村山市とも協議して、これらの遺物を市の文化財としたのです。
残す努力をしなければ、残らない昭和の記憶。
私の叔父も、兵学校での体験を自分の子供を含め、若い世代の者達には、
とうとう一言も語らぬまま、七年前に他界しました。

東航正門前石碑

「東航正門跡石碑」
この石碑が無ければ、ここがかつて軍事施設であったことをうかがわせる痕跡は皆無である。

祖国のため特攻隊員として出撃し、二度と還ることの無かった少年達に向けて、
全国各地にこのような石碑が建立されています。
中でも、東京荒川区の「法光寺」にある、
「陸軍少年飛行兵慰霊碑」に刻まれた碑文が印象的です。
「行き交う人々心あらば一遍の回向を賜らんことを」

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