多摩川へ向かう線路から分岐すると、
電車は民家の軒先をかすめる様にしながらカーブし、
終点の「東京競馬場前」に到着します。
「えっ、ここって駅なの?」
私の記憶では駅というより、
何もない殺伐とした原っぱの中で、
「無造作に電車から降ろされた」
という印象でした。
まるでジブリ映画のような
休日の競馬開催日には、中央線と同じオレンジ色の101系電車が、
確か6、7両編成で運転されていたと思います。
のどかな田園風景の向うに多摩丘陵がなだらかに横たわる景色の中、
仕切り柵もない軌道上を行くオレンジ色の通勤電車は、
既に高架化されていた中央線と比べれば、
そこが同じ東京であることを疑わせるに充分でした。
私の生まれ育った国分寺も、何もない森と原っぱであったと書き綴っては来ましたが、
その後の急速な宅地開発でそれらの風景は短期間に一変してしまいました。
誠に失礼ながら、甲州街道より南側の多摩川沿いは例外的に、
いつまでも「何もない」景色が「有った」ように思うのです。
そこへゆくと、京王線の「府中競馬正門前」駅は当時から現在のような造りでしたので、
改札から馬券売り場まで雨の日も傘が要らない状況は、
現代のあらゆるアクセス線にとって「お手本」となったはずです。
浅い眠りに似た
父と私は競馬が終わると南武線のガードを潜って下河原線乗り場へと行きました。
徒歩で京王線より少し不便な場所でしたが、中央線沿線に住んでいたものですから、
あの野原に放置されたような電車に乗れば、
ものの5分で見慣れた住宅街の景色に帰ることが出来たのです。
国分寺行きの電車が北府中を出て多喜窪通りの踏切を渡る時、
母とよく自転車で買い物に来るスーパーマーケットが見えました。
「こんなに近いところだったのか」と改めて感心しながら、
それでも何か随分遠い場所に行けた様な、実に不思議な「下河原線」の旅でした。
あの「何もない原っぱ」は、現在矢崎町防災公園になっています。
「運転手はきみだ、車掌はぼくだ」。電車ごっこに興じる子供たちの姿がオブジェとなって、
そこがかつて鉄道の駅であったことを示しています。
「風景ありのまま」で、少年時代にジブリ映画のような体験をさせてくれた「下河原線」は、
今でものんびりとした散歩道になっています。
参考資料:blog 70年代の追憶
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