今から半世紀前の12月10日、
日本中に衝撃が走る大事件が起こりました。
その舞台となった国分寺、府中、小金井、
まだ小学生だった頃の記憶を遡って、
「3億円事件」とは一体どんな事件だったのか?
あれから50年の節目を迎えるに当たり、
半世紀の時を経て、初めて言えることは何か?
これまで誰にも見えなかった新たな犯人像とは?
様々な角度からじっくり考えるシリーズです。
退屈な日常に広がった波紋
学校から帰宅すると、我が家の玄関は施錠されていました。
当時インターフォンはおろか、呼び鈴さえ付いていなかった我が家。
困った私は庭に回り込むと、母の自転車は置かれたままで、留守でないことはすぐに判りました。
学校の下校時刻に施錠することなどない母でしたので、訝しく思っていると、
窓のカーテンが開いて母が「早く早く」と玄関方向を指さしました。
母は玄関を開けて私を家に入れると、また慌てて扉に鍵を掛けていました。
「何かおかしい、何か大変なことがあったんだ」と、子供ながら私は気が付きました。
このブログではこれまでの記事で、「ですます調」を使用していましたが、
このシリーズに限ってはこれ以降「である調」に統一します。
3億円という金額がどれほどのものか、当時の私にはさっぱり見当もつかなかった。
とにかく、「とてつもない大金」が府中刑務所の横で強盗に合い、
その犯人がまだ我が家の近くを逃走中であるとのことだった。
因みに、当時の我が家から事件現場までは、自転車に乗って10分位で到着できる場所であった。
母は家中の鍵という鍵を全て締め切り、窓という窓に全てカーテンを掛けていた。
昭和43年、国分寺はまだ畑ばかりの田舎町で、
「治安」などということを普段気に懸けるようなことは有り得なかった。
窓にカーテンを掛けるのは「お出掛けの時だけ」というのが、
我が家の、そして近所の家庭においても「常識」だった。
その意味では「何事もない退屈な日々」とも言えた。 そこへ・・・、
降って沸いたような「大事件」の勃発に、母は息を潜めて「息子の帰り」を待っていたのであった。
時が語る真実を追う
あれから約50年の時が流れた。
公訴時効まではたったの7年、それから今日まで、それとは比べ物にならない年月が流れた。
あなたがもし犯人だとしたら、この50年を無事に過ごし切る自信は有るだろうか?
犯人にも親兄弟が居る、家族親戚が居る、配偶者と子供が居る。
職場には面倒見の良い上司や、親しい友人、恋人が居るかも知れない。
多分これらのうちの幾つかは「居る」のが普通ではないのか?
これらの人達と、それまでの繋がりを保ちながら、「3億円」という大金を抱えて、
自分がその「大事件」の犯人であることを誰にも悟られずに50年・・・。
生き抜くことが本当に可能だろうか?
「戦後最大のミステリー」と言われる3億円事件。
当時の社会は大切な視点をひとつ見落としていた可能性はないだろうか?
「特定の境遇」に眼を向ければ、ミステリーでもなんでもない、
全く別の犯人像が浮かんで来ることはないだろうか?
まずそうした点から事件を掘り下げてみたい。
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