国分寺と真田の接点

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前の記事でも書きましたが、
国分寺は太古の多摩川によって浸食された
河岸段丘の台地です。
河岸段丘として有名な場所に群馬県沼田市がありますが、
国分寺は地形的成り立ち以外にも、
この沼田市とは縁があるのです。

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真田無くしてエックス山無し

現在放送中の大河ドラマ「真田丸」でその詳細が描かれようとしています。

天正17年、相模国に君臨していた北条氏政は、

沼田領を巡って真田、徳川らと対立していました。

秀吉を交えた四者協議の決裂を以て北条攻めの大義名分を得た秀吉により、

翌天正18年、小田原城が陥落。

相模国津久井城代、内藤周防守はこの非常事態を受けて山城を脱出、

東方へ向い現在の府中市本宿(京王線中河原駅付近)に難を逃れました。

元北条家臣の内藤氏は、その後農民としてその地に土着したと伝えられます。

この内藤氏の子孫、内藤治助が現在

「たまらん坂」のある国分寺市内藤(旧内藤新田)の名主さんです。

江戸享保年間、府中本宿村で大規模農業を展開する内藤治助の下に、

青梅の小曽木村からひとりの若者が丁稚に来ていました。

この若者こそが、エックス山の植林に携わった人物であり、

エックス山の元地主さんの御先祖様に当たります。

風あって水無し

さて話は天正時代に戻りますが、結局沼田領がこのとき誰のものになったかは大河を御覧頂くとして、

もし秀吉の北条攻めが無かったとしたら、

エックス山を含む現在の形での国分寺市は存在しないことになります。

沼田明け渡しを断固として拒否した真田あっての大義名分ですから、

希薄ながら、国分寺市は沼田市、及び真田家と縁があるのです。

但し、大河のストーリーが全て「史実であれば」のハナシです。

ところで、台地で農業を行うのはかなり困難であったようです。

当時の土木技術では玉川上水からの導水は不可能で、雨水も下方に流失してしまいますから、

湧水の豊富な「姿見の池」付近を除いて、市内に水田は殆ど見られませんでした。

加えて、すすきが生えるのみで高い樹木の1本も無かった原野は、

風にブレーキをかけるものが何もなく、一年中強風が吹き荒ぶ高台であったと思われます。

古文書によれば、油断をすると地面に置いた籠が強風で吹き飛ばされ、

追いかけても追いかけてもなかなか追いつけなかった、という趣旨の記述があるそうです。

とにかく、「風にブレーキをかけるため」に開拓者達は植林を急がなければならなかったようです。

後にそれらが武蔵野の雑木林となり、野原は「緑の森に囲まれる」ことになったのです。

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