シルバーウィークが始まりましたが。
秋分に絡んだこの連休は、全国的に
「地元の神社のお祭り」の季節でもあります。
古くからの氏子でもない限り、直接的な縁は
あまり無い新興住宅住まいの方でも、
季節の移り変わりを肌で実感出来る風景です。
私の生まれ故郷、国分寺の「内藤神社」も、
秋祭りの準備が始まっていました。
郷土国分寺の変遷を見つめ 幾年月
たまらん坂から北へ北へと歩を進めると、やがて内藤神社に辿り着きます。
決して近い距離とは言えませんが、
その昔は多摩蘭坂のある内藤新田入口から1本道の参道であったはずです。
それがためか、昭和40年代頃までは内藤神社までの細い道は府中市に属していました。
神社の由来など書いてもあまり面白くありませんので、別の話になりますが、
元々この神社は享保年間に新田開発のため入植した農家の庭先に、
小さな祠としてひっそりと祀られていたのだそうですが、
江戸時代、府中の武蔵総社「大國魂神社」が大規模な改修を終え、その際大量の材木が余り、
それらを無償で譲り受ることに成功した農民が、今の場所に社殿を建設したのだそうです。
その時、大量の材木を馬車で現地に輸送した人物の子孫は、私の小中学校時代の同級生です。(^^)v
地方の名も無き神社の割には、大変上等な木材を使用していることで、
後の世の歴史家達を唸らせたという内藤神社。
そういうわけで、かつては参道が神社手前まで府中市に属していたんですかね。
思いがけず出会う 遠い日
郷土のことなど暫し忘れ去って幾年月、
このブログを始めたお陰で最近はしばしば訪れる様になりました。
内藤神社の境内で懐かしいモノを発見しました。
上の写真にある「庚申塔」と刻まれた石碑です。
この石碑は以前、中央線の線路を渡る「内藤橋」のたもとに置かれていたものです。
橋の北西角からやや奥まった場所の線路きわ、掘割の土手の上にひっそりと佇んでいました。
石碑には「文政2年」と刻まれていますが、江戸後期は庚申信仰が全国的に流行したそうなので、
こうした石碑自体珍しいものではありません。
私はまだ幼稚園にも上がっていない頃、この石碑の上に跨って、
掘割の中を行く中央線の電車を飽きもせず眺めていました。
今にして思えば、あまり安定性の良い形状では無いため、
ともすれば石碑ごと土手下の線路に転落してもおかしくありません。
実はこの石碑の裏側には、墨と筆で描かれたと思われる落書きがありました。
昨日確認したところ、経年によるか若しくは石の汚れでもうその落書きを観ることはできませんでしたが、
記憶を辿れば左図のような感じで、矢印の方向には線路がありました。
JR中央線は高架化された後も「人身事故発生率」ナンバーワンの座はゆるぎないものがあるようです。
実は昭和初期からその傾向があったのかも知れません。
母の話では、私がまだ生まれる前に、やはりその場所で事故があったそうです。
その凄惨な現場を目撃した誰かが、密かにその様子を石碑に記したのではないかと・・・。
確か日付もあったような気がするのですが、流石にもう思い出せません。
地域のイベントと云えば、「内藤神社のお祭り」くらいしか無かったあの頃。
子供の足ではまだ遠い道のりでした。
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