五風十雨の味わい 狭山湖

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五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降る。
安定した天候とはそういうもので、晴れれば良いというものでは無い。
埼玉県に在って、東京に飲料水をもたらす恵みの湖、狭山湖。
ここから眺める富士は、多分絵葉書などにはなっていないだろうが、
東京多摩から車であっという間に辿り着く、
この場所からの眺めは格別な「贅沢品」であるように思える。

12月上旬撮影

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富士五湖が嫉妬する

都内ではビルの谷間から、多摩地域では住宅街のその上に顔を出す富士山。
それはそれで趣なのだが、やはり富士山は湖とのコントラストが最も美しい。
お膝元の河口湖のように、「逆さ富士」というわけには行きそうも無いが、
ここはあくまで「水道用地」であり、「観光地」では無い。
従って周囲の山にはホテルや看板などの「人工物」は一切無く、
湖面にボートを浮かべることも許可されない。
飲食店や土産物屋なども言うに及ばす、有るのは駐車場とトイレだけ。
これほど「無い無い尽くし」の富士山スポットも珍しいのではないか?
長い提体が丁度良い「展望台」となっている狭山湖。
ゴミ箱の設置が無いのも、「はいチーズ」の観光客が居ないからである。
これには流石の富士五湖達も、さぞ羨ましがっているのではないかと思う。

10月中旬撮影

東村山に四丁目はありません

狭山湖が着工されたのは、お隣の多摩湖(東村山貯水池)が完成した昭和2年である。
東京の人口増加を見込んでの貯水池計画であったが、
多摩湖の造成中に早くも「多摩湖だけでは足りない」ことが判明。
もうひとつの人造湖が必要になった、それが狭山湖(山口貯水池)である。
水源は多摩川、羽村と小作の2か所から導水管で水を引き込んでいる。

トトロの森へと向かう列車 羽村 武蔵村山
多摩の変遷は大雑把には「甲武鉄道」に始ります。 しかし人口増加につれ、水の需要が追い付かず、 大正5年から狭山丘陵に貯水池の建設が行われました。 「多摩の歴史」と「水道の歴史」は重なっています。 南部の京王線や小田急線と比べて、 東村山付近...

取水塔から汲み上げた水は、「東村山浄水場」「境浄水場」を経て、各家庭の蛇口へ。
過去記事にも書いているが、大正から昭和初期にかけての両貯水池の工事は大規模で、
そのための資材、人材を運搬するために敷設された多摩湖鉄道(現西武多摩湖線)、
川越鉄道(現西武国分寺線)、これらの鉄道が後の多摩地域の発展に寄与している。
多摩湖、狭山湖が無ければ、「東村山音頭」も無かったに違いない。

取水塔と富士山 10月中旬撮影

開拓者のランドマーク

狭山湖は、元々勝楽寺村、堀口村の二村が在った所で、
人造湖の計画によって農民は皆近隣の村に移住している。
国分寺市の史料を見ると、筆者が生れ育った所にも堀口村の出身者が入植している。
富士山を眺めていると小学生の頃を思い出す。
特に冬の寒い朝は、富士山を眺めながらの登校だった。
昭和40年代、あの頃の国分寺は畑ばっかりで、
チビのくせに、富士山を眺めるにあたっては背伸びをする必要も無かった。
昨今はすっかりお目に掛かる事が少なくなってしまったが、
武蔵野の原野を、農地として開拓した人々にとって、
富士山は「開拓者のランドマーク」だったのではないだろうか。
その当時と同じ景色が、現在唯一狭山湖から観ることが出来る。

12月上旬撮影

多摩川水系は、雲取山から甲武信ケ岳を結ぶ尾根沿いにその源を発する。
そこに降った雨や雪が多摩の農地を潤し、収穫をもたらして来た。
「五風十雨の味わい」をもたらす景色は、
平成14年の提体耐震補強工事の完成を記念し、
東京都知事であった石原慎太郎氏が、石碑に刻んだ言葉となった。

 

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