たまらん坂の標識の近くにある巡礼供養塔、
その奥を眺めると当然ながら崖線を登る坂道になっています。
「しらみ坂」という坂で、
その由来に関する詳細は現地に案内板が設置されているので、
そちらに譲ることにしますが、
要は新田義貞公に縁のある坂道なのです。
「国分寺 昔」で検索すると、
たまらん坂も含めて昭和初期の坂道の様子を写した画像を見付けることができます。
しらみ坂は「白明坂」とも書き、府中市北山町にも同じ名前の坂が存在しています。
本家と元祖の争いのようにも見えますが、私は国分寺の方がそれらしいと感じています。
自分の出身地だからという以外に、その昭和初期の写真を見ると現在の様子とは似ても似つかず、
今にも馬に乗った武将が現れて来そうで、なんとも絵になっていると感じるからです。
しかし、本当の所は多分「どちらも本物」ということだと思います。
現在のたまらん坂付近は、国立と国分寺、そして府中市との境界が複雑に入り組んでいますが、
戦国時代のその頃は現在の国分寺市内藤から府中市北山町にかけて、
一本の坂道であったに違いないからです。
内藤新田に関する古文書によれば、江戸時代の当地は「辺り一面すすきの原野で、
視界を遮る樹木の一本も無かった」と記されているそうです。
「いざ鎌倉」を目指す道程に境目などあろうはずがありません。
その長い坂道を中央で分断するかのように、大正期に造られたのが多喜窪通りのたまらん坂なのです。
国分寺崖線の坂道としてはしらみ坂の方が遥かに先輩格なのですが、
後から出来たたまらん坂によって、皮肉にも本家 vs 元祖のような格好になってしまいました。
太古の昔、大きく北に蛇行していた多摩川の水によって浸食された河岸段丘は、
府中に向かって幾つかの段差を持ちながら現在の多摩川に至っています。
その途中には「分倍河原古戦場」の遺跡も存在します。
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