昭和の残像 昭島

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昭和記念公園の西側に見えた3本の煙突は、
もう解体されてしまったのだろうか。
「ふた駅ゆられてもまだ続いてる」ほど広大な、
昭和記念公園の西側の区画では、
大きなクレーンが何基も作業を続けています。
ランドリーゲートのバス停も今は無く、
名実ともに現世から姿を消そうとしています。

立川基地

昭和22年 国土地理院
米軍に接収されて間もない立川基地

ランドリーゲート付近

昭和22年 国土地理院
「ランドリーゲート」と思しき辺り、洗濯物の工場はもうあったのだろうか?

ランドリーゲート付近

平成20年 国土地理院
ここがランドリーゲートだった、間もなく法務省「総合センター」に生まれ変わる。

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消えたランドリーゲート

草ぼうぼうで荒れ放題のまま、戦後60年以上も放置されていた国有地が、
間もなく変貌を遂げようとしています。
米軍立川基地のランドリーゲートと呼ばれていた付近には、
最近真新しい集合住宅が完成しつつあります。
このエリアの大部分が法務省の施設になるという事なので、
なるほどその官舎かも知れないと思わせる風景です。
概して公有地の「跡地利用」というものには地元住民の反対がつきもののようです。
以前石原東京都知事の時代に、「原宿に刑務所を造る」という案が出され、
当然地元の猛反対に合ったわけですが、
当時の石原知事は「住民エゴ」と一言のもとに斬って捨てました。
しかし、「原宿刑務所」は実現することなく今日に至っています、
そしてその案が立川基地跡地に飛火して来た訳です。
もちろんこちらの住民だって黙ってはいなかったのですが、
所詮「原宿の民」とは民度が違うということなんでしょうか?

中神引込線

昭和22年 国土地理院
中神引込線の様子、途中で二股に分岐している。

中神引込線跡

平成20年 国土地理院
住宅地にくっきりと引込線が見える、荒地に3本の煙突が往時を忍ばせる。

ランドリーゲートを含む一帯は、昭島市に属します。
昭島市は米軍横田基地にも隣接し、同基地に発着する軍用機のアプローチ下にあります。
因果な土地柄とも言えそうですが、
その昭島市内からかつて立川基地へと鉄道の引き込み線が敷設されていました。
今でも航空写真からはっきりとその形状を見て取ることができます。
昭和22年の画像を見ると、まだ日本軍の航空基地であった時の建物が見えますが、
大規模な航空機の製造工廠であったといいます。
そこへ部品などを輸送するための鉄道路線だったのです。
引込線は途中で分岐し、手前はランドリーゲート付近へ、
もう一方は敷地の北側、現在の昭島相互病院付近から基地内に入っています。

中神引込線跡

向うから貨車を牽引した機関車が走ってくる姿が眼に浮かびます、両側は一面の畑。

歩車共存標識

「歩車共存道路」とは、フツーの道路のこと?
それにこの標識、本当に必要だったんだろうか?

今に遺された ”電車ごっこ” の路

現在はと云うと、写真の通り「歩車共存道路」となっています。
歩道でもなく、車道でもなく、両者共存というのですが、歩道と車道は分けられているようなので、
何のことは無い「普通の道路」ということじゃないですか?
しかし、歩と車を分けているのはただのガードレールではなく、
ここが線路だったことを思わせる工夫がなされているようです。
時折「役所の命名」には理解に苦しむケースがありますが、ここもそのひとつでしょうか。
また標識の絵が何故「クジラ」なのか・・・。
これは役所の名誉のために言っておきますが、
昭島市はクジラの化石が出た町ということで、クジラは昭島のマスコットなのです。

歩道脇の輪転機

歩道の傍らに遺された輪転機
ここが鉄道敷地であったことを無言で語っている。

ポイント切り替え

当時使われていたポイント切り替え部のレール
南北あべこべでなければなお良かったのに。

中神引込線分岐点跡

中神引込線の分岐点
ここを走る貨物列車の画像があれば・・・。

少し歩くと歩道の傍らに古びた輪転機がありました。
写真のB地点、ここが引込線の「分岐点」だったのですね。
一緒にポイント切り替えレールも残されていました、当時ここで使用されていたものですが、
良く見ると分岐方向が実際とは逆になっています。
これも役所が安全に配慮した結果なのでしょうが、
「南北あべこべ」というのは少なくとも鉄道ファンにとっては「?」ということになるでしょう。

アメリカ村

昭和36年 国土地理院
立川基地北側の「アメリカ村」、現在も枠で囲った部分がそのまま使用されている。

立川基地が米軍に接収されたことで、基地周辺には米軍人御用達の宿舎がビッシリと建てられました。
その一部が現在も健全な形で残っています。
比較的余裕のある敷地に、こじんまりとした平屋の住宅が並んでいます、その名も「アメリカ村」。
アメリカ兵が今でもそこに住む理由はありませんので、
使用しているのは「その雰囲気」を求めて来た日本人だそうですが、
今なお昭和の空気が漂う、ある意味で贅沢な空間になっています。
それにしても、「部外者立入禁止」のはずが、GoogleさんならOKというのは、
さすが、アメリカ村という感じです。
こうして見ると、武蔵野市の中島飛行機工場への引き込み線が、
武蔵境側から伸びていたのは、ここへエンジンを運ぶために便利だったからなんですね。
そして何故か青梅線沿線は、ユーミンの聖地が良く似合っているようです。

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