明治から大正にかけての多摩地域は、「都心」から見て
手ごろな保養地であったようです。
私が育った国分寺にも往時著名人の別荘がいくつかあり、
現在の日立中央研究所もそのひとつです。
国分寺よりも更に都心に近い狛江市も、風光明媚な場所として、
当時は所謂「リゾート地」のような位置付けであったようです。
その名残が現在でも残されていました。
清流と丘と田園の狛江
多摩川の川辺に造られた料亭「玉翠園」は、鮎などの川魚料理を専門とする、
当時としては高級料亭であったようです。
それにしても、多摩川で普通に鮎が捕れていたとは驚きと言わざるを得ませんね。
この料亭「玉翠園」が出来たのは明治39年ということですから、
日本がまだ近代国家としては未完成の時代で、
鉄道も甲武鉄道(現中央線)が一部で電車の運行を開始したばかりでした。
都心から見て狛江は充分「リゾート地」であったと言えそうです。
狛江が保養地として選ばれた理由は、手ごろな距離ばかりでなく、
多摩川のロケーションにあったのではないでしょうか。
良く晴れた日には富士山の遠景がさぞ美しかったであろうと思われます。
「玉翠園跡」の案内看板に描かれていた当時の様子では、
川淵に突き出すように石垣が築かれています。
また、「六郷用水取水口」の案内看板には当時の貴重な写真がありました。
石垣まで川の水があり、隣には取水口もはっきりと写っています。
ここで天然ものの鮎料理とは、明治という時代の粋を感じます。
そしてこの石垣の一部が現在でも残されていました。
玉翠園の在った場所は現在小さな公園になっています。
川の流れのように 今も昔も
大正の時代になって、羽田や川崎などの多摩川河口周辺の大規模な開発が始まり、
鮎の遡上が大幅に減るなどしたことから、玉翠園は昭和14年に営業を停止しました。
しかし一方で、小田急線の開通により沿線の事情も一変していたようです。
都心から狛江に子供達が林間学校に通うようになっていたといいます。
当時の四ツ谷区(現新宿区)教育会が、この地に専用の宿舎を建て、
毎年夏になると子供達の川遊びに興じる姿が見られたそうです。
それほどの景勝地であったということなのでしょう。
付近には伊豆美神社や兜塚古墳などもあり、学習にも適していたのかも知れません。
しかし、多摩川の水質悪化には歯止めが掛からず、
周囲の田園にも宅地開発が進み始めた昭和31年、林間学校は閉鎖されました。
昭和23年の航空写真には、在りし日の林間学校施設と思われる建物が写っています。
暫くは廃屋として放置されていたようですが、昭和46年に不審火によって焼失、
現在は狛江市の福祉会館になっています。
昭和になって護岸工事が進み、玉翠園跡地はポツンと取り残された高台のようになっています。
かつては風光明美な景勝地、「狛江リゾート」の遥かな記憶です。
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