恋ヶ窪散策 ここだけの話

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畠山重忠といえば、『鎌倉殿の13人』には含まれないものの、

鎌倉御家人として知名度の高い武将の一人ですね。

恋ヶ窪は国分寺でもっとも初めに人が住み始めた場所で、
あちこちから縄文土器が出土しています。
そして、地名の由来については諸説紛々ですが、
やはり「畠山重忠と夙妻太夫」の古事が、
地元観光振興に最も貢献するであろうということで、
力説されているようです。
しかし国分寺に生まれ二十歳まで住民であった私は、
その話を知りませんでした。 (^_^;)

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朽果てぬ名のみ残りて恋ヶ窪

畠山重忠と夙妻太夫の恋物語

タモリっさんが見ていた? 国分寺市の観光MAP

ちなみに「夙妻太夫」は「アサヅマダユウ」と読むのだそうです。 (^^;

「畠山重忠」でググりますと、主に埼玉県深谷市に由来する記事はヒットしますが、

「恋ヶ窪」というのは少なくとも検索上位には現れません。

ちょっと肩身が狭いのではと思われますが、もともとこの「恋物語」が

近年のインターネットによる拡散効果が生み出した代物であったとすれば、

まだまだ地位が低いのかも知れません。

では、この逸話をもとに「国分寺夙妻太夫巡り」を計画するなら、

まずJR国分寺駅下車が望ましいでしょう。

市の観光MAP片手に西へと進めば線路に架かる「花澤橋」に出ます。

線路の北側に沿って遊歩道になっていますから、そこの坂を下りてゆきましょう。

丁度右手が「日立製作所中央研究所」の深い森になっていますね。

暫くゆくと西武国分寺線のガードがありますので、くぐって反対側に出ます。

その先に夙妻太夫が身を投げたと言われる「姿見の池」があります。

中央線車内からもチラっと見えるかも知りません。

近くに「東福寺」もありますので是非寄ってみましょう。

伝説の「一葉松」や夙妻太夫の墓碑があります。

更に北へ行くと「熊野神社」があります。

朽果てぬ名のみ残りて恋ケ窪、今はた問ふも ちぎりならずや

の石碑がありますが、この歌は文明十八年(1486年)法親王聖護院宮が

奉納したものであるはずですが、

いつの間に畠山重忠公が、投身した夙妻太夫のために詠んだことになっています。(^_^;)

さて、これで終わりと云いたいところですが、

実は私が最も紹介したかったのが次の写真の場所です。

国分寺 わらびの道

わらびの道
後方の線路はJR中央線、左方向が西国分寺。

少し強引 でもかわいい わらびの道

「わらびの道」というのだそうですが、ここは私が幼少の頃よく遊んだ場所なのです。

西国分寺駅中央線ホームから国立方向を見ると、

線路を跨ぐ歩道橋が見える筈です、「武蔵台橋」といいます。

そこから線路の北側に沿って西方へ約200メートル程行ったところにこの看板があります。

人がすれ違うのがやっとで、舗装は無く両脇に自然の草木が生えた道。

国分寺市日吉町と府中市武蔵台の境界上にある、

その200メートルの小路こそが「わらびの道」なのですが、

そんな名前が付けられていたとは最近まで知りませんでした。

線路端で頭上に高圧送電線があることから、宅地開発されずに昔の面影を最後まで残していた場所です。

自然歩道として意図的に整備されたのではない「ただの小路」。

昔はいたるところにこんな小路があったのですが、もう無くなってしまいましたね。

私はこの「つくる会」とはなんらの御縁もありませんが、

きっと残すべき貴重さを感じておられるのでしょう。

現在この看板のところで都道建設工事が行われていて、

近づけるかどうか、微妙ですが、

「わらびの道」自体は工事に係る場所ではありません。

小さな子供を連れて歩ける道というのがなかなか少ない環境で、

自動車が通る心配の無い散歩道として、いつまでもここにあって欲しいと私も思います。

国分寺 わらびの道

わらびの道から内藤橋方向へ続く小路。
私が幼少時によく遊んだ場所ですが、都道完成と共に消失するのでしょう。

コメント

  1. とにぃ より:

    関西住みなんですが、2月9日所用で東京に行く事になりました。

    高校時代に「平家物語」を読んで幾星霜、

    50歳になって悲願「国分寺」に行く事になりました。

    すでに「傾西の松」も朽ちて無いそうでありますが、

    「平家物語」フォロワーとしても欠かす事の出来ない

    国分寺。「恋ヶ窪散策 ここだけの話」

    を胸に臨んでみたいと思っています。

    「わらびの道」歩いてみたい!

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