雨の中 消えたボーナス 三億円事件の五十年 vol 4

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12月10日は「3億円強奪事件」発生の日である。
強奪と言っても、決して強盗ではなかった。
現金を奪うに当たって、暴力に訴えることなく、
脅し文句の一言すら犯人は吐いていない。
仮に捕まえることが出来たとしても、
適用できる罪はせいぜい「窃盗罪」である。
10年以下の懲役、50万円以下の罰金、
この程度の犯罪を、世紀の大犯罪にしたのは、
犯人ではなく、警察を含む当時の日本社会だ。

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土砂降りでも消えぬ決意

昭和43年12月10日、前日から日本付近は深い気圧の谷の影響を受け雨模様。
低気圧が持ち込んだ南からの暖かい湿った空気によって、朝9:00の東京の気温は14℃、
大気の状態が不安定で朝から土砂降りの雨だった。
午後にはこの雨も上がり、夕方には晴れ間が広がっていたが、
最高気温は19℃と、12月としては異例の暖かさで、
皮製のライディングスーツにレインコート姿で「出動」した犯人は、
流石に少々蒸し暑さを感じたのではなかろうか。
天気図はクリックすると拡大します。

3億円事件 天気図

この日の犯人の「仕事」は、朝9:00過ぎに出発するはずの現金輸送車を、
日本信託銀行国分寺支店の斜め前で見張ることから始まった。
使用した車は日野市内の料理店から盗んだ緑色のカローラ、
既にこの時明星学苑に程近い空き地には、「白バイ」に改造したヤマハスポーツR1が、
エンジンを掛けた状態でスタンバイしてある。
また武蔵国分寺七重塔跡の前には、乗り換えて逃走するためのもう一台のカローラが、
これもエンジンを始動した状態で待っている。

準備は万端だ、今日のこの時のために一分の隙もない計画を一年がかりで立てて来た、
失敗などするはずがない。
動き出した! 輸送車が出発する、さあ勝負だ!!

真実はたった30分のドラマ

この事件は犯行の一年前にあたる、昭和42年12月に東京保谷市(現西東京市)のひばりが丘団地から、
一台のニッサンプリンススカイライン2000GTが盗難されたことで、既に始まっていたと言える。
犯人は警察の捜査能力や、ひいては小金井市の都営小金井本町団地が、
「盗難車の保管場所」として適切かどうかを見極めるための準備を始めていたと見られている。
更に犯行後は現金を何らかの方法で「洗浄」し、
自分も社会の眼から離れた場所に脱出することによって完結した。
準備に一年、犯行に30分、そしてその後の「後処理」にも相当の月日、時間を掛けたに違いない。
我々が現在「事実」として知っているのは、そのうちの僅か30分だけに過ぎず、
残りの膨大な時間については、「推理」以外に覗う手段がないのである。
その30分の事実については、良く知られているので、文章ではなく以下の写真で御確認願いたい。
クリックで拡大します。

3億円事件当日
昭和43年 国土地理院 図1
第三現場から犯行現場を経て第二現場まで。
3億円事件 犯行当日
昭和43年 国土地理院 図2
第二現場から足取りが途絶えるまで

※訂正:写真中では「西元町」とありますが、正しくは「東元町」

犯罪を立証するためには、遺留品などの物証だけでなく、
それらを元に「犯行の動機」を解明しなければならない。
例え逮捕出来たとしても、動機が不明では立件、起訴することは困難だ。
どんなに犯人が黙秘しても、揺るぎない筋道を組み立て、
物証で裏付けることで犯人は罪を免れることが出来ない。
数百点とも言われるこの事件の遺留品は、とうとう何も語ることは無かった。
しかしこの五十年という月日は、当時の捜査方針や、
社会の事件に対する見方が根本的に誤っていたことを語り始めている。
次回は時が否定した「誤った判断」の数々を点検してみることにする。

人にレッテルを貼る社会 三億円事件の五十年 vol 5
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