トランプショックと戦後の日本 東久留米

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多摩は日本の戦後を映す鏡です。
首都の中にあって、首都から距離を置き、
その政治経済からの程良い距離が、
多摩の戦後史を作って来たのではないでしょうか。
戦前、戦中は軍事需要の要として機能した町が、
今では広大な公園になり、防災拠点となり、
更には巨大団地となって戦後の日本を支えて来ました。
米国では新しい大統領が選出されました。
変化を恐れない国に、見習うべきところは、
謙虚に見習いたいものです。

東久留米 戦後

昭和22年 国土地理院
東久留米駅からの引き込み線分岐

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戦闘機部品から働く人々へ

思えば私達日本人は戦後、「トランプショック」よりもはるかに大きな衝撃に耐えて、
今日に至っているはずです。
昭和20年、敗戦国として屈辱の道を歩む決意をした日本。
そのとき米国は奢っていなかったと誰が言えるでしょうか。
ベトナム戦争に何を学んだかは、我々の想像の範疇を超えて、
その後の湾岸戦争やアフガン戦争、イラク戦争に見られるように、
米国という「力の国」に頼った政治を容認してきた私達に突き付けられた、
「自己責任」というショックに今晒されようとしています。

東久留米 戦後

昭和22年 国土地理院
緑豊かな国だった

東久留米 戦後

昭和22年 国土地理院
中島飛行機 田無工場

思い起こせば緑豊かな国であった、ということを再確認できるのも多摩地域の良いところです。
西武池袋線の東久留米駅から南東へ伸びる引込線がありました。
その線路の行き先は、「中島飛行機 田無工場」。
戦闘機のエンジンに使用される金型部品を生産する工場でした。
その引込線跡が現在「立野緑地」として、その痕跡を遺しています。
そして、工場の跡地は「ひばりが丘団地」として生まれ変わりました。
「なんとかが丘」という地名の元祖かも知れませんが、この丘の住民達はただ囀るためではなく、
日々額に汗して働き、戦後の日本経済を支えて来ました。
その意味では同じ「丘」でも、「桜が丘」や「自由が丘」の住人とは一線を画す存在です。
何も巨大団地の住民だけが働いてきたわけではありませんが、
ここでは「象徴」としての存在感を再確認しておきたいと思いました。
その後、「希望ヶ丘」や「若葉台」など、
新しい時代になったのだと自分自身に言い聞かせるようなネーミングが次々と出現し、
それらを以て「もはや戦後ではない」などと、
現実から目を背けるが如く生きて来たのではないでしょうか。

立野緑地 東久留米

立野緑地、引込線跡
後方に「ひばりが丘団地」の一角が見える

立野緑地 東久留米

立野緑地 引込線跡
戦闘機の部品を運んだ道

今日も風さえ吹きすぎる

立野緑地の歩道を歩いていると、すぐそばに森が見えます。
「竹林公園」です、戦後暫くはこんな風景も多摩では特段珍しいものではありませんでしたが、
いまでは「保存」の努力なしでは生き残れません。
湧き水も同様で、東京の名水に指定される泉が、守られながら今日も湧き出ていました。
立冬の後に初めて吹く強い季節風を、「木枯らし一号」と呼びますが、
今日はそんな風に吹かれて竹林を歩いてみました。

東久留米 竹林公園

竹林公園 泉が沸く森

東久留米 竹林公園

竹林公園の湧水
流れの音も風に消される

かつては米国をして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言わしめた日本。
しかし、その米国の大統領選挙でショックを受けているというなら、
ナンバーワンは一体何だったのか?
上っ面の繁栄と、核の傘に守られた、見た目だけの「平和主義」が大きく動揺しています。
敗戦国が故に免れて来た「自主自律」の精神が、
今更「そろそろ如何?」と問いかけられて狼狽える。
そんな情けない国家国民をよそに、今日も竹林を木枯らしが吹き抜けます。

東久留米 竹林公園

竹林公園 湧水の原点
今、日本人もこの原点を求められているのかも知れない。

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