ここは国分寺の名所というより、
東京を代表する景勝地のひとつであると思います。
ここの水が飲めるか、飲めないかは知りませんが、
そういう議論ではなく、国分寺崖線の雑木林と、
その下から豊富に湧き出る水、それと色々な伝説。
これらが混然一体となって、ひとつの景観をなしている。
武蔵野の素顔がそのままの水辺を訪ねました。
時を超え 時を埋める湧水
「灯台下暗し」とよく言われますが、
私は国分寺に生まれて20歳になるまでこの地で暮らしていたにも関わらず、
ここを訪れたことが一度もありませんでした。
子供の頃から遠くの世界に憧れて、全国あちらこちら旅をして、
もはや日本国内に関しては、2本の足で降り立ったことのない都道府県は、
山口県と佐賀県だけになります。
それに引き換え、「郷土」という感覚は無きに等しいものであったのだと、
我ながら呆れ返っている次第です。
武蔵国分寺跡を中心とした国分寺市西元町一帯は、
歴史的に貴重な遺構が数多く出土する地域であることは、
地元小学校の社会科で嫌というほど教えられていた割には、
あまり強く印象には残っていなかったようです。
それでも東福寺「一葉の松」は、当時小学校の窓から眺めることが出来、
「あれって教科書に載ってるよね」と現物を指さしても、それほどの感慨はありませんでした。
年齢を重ねるとやはり感性が変わるもので、特に「お鷹の道」周辺を見ると、
何時の間にこんな演出がなされていたのかと、眼を疑う程風情に溢れているではありませんか。
国分寺の歴史は大きく二つに分断されています。
一方は奈良時代から、鎌倉時代にかけての「武蔵国分寺」とその時代にまつわる伝説。
そしてもう一方は、江戸享保年間に始まった新田開発の歴史。
その間五百年以上に及ぶ長い歴史の空白があります。
言い換えれば、国分寺は一度死んで、五百年後にまた生まれ変わったということになります。
奈良時代や鎌倉時代のことはなかなか想像しきれません。
その為そういう時代について、大河ドラマの視聴率が伸び悩むのも致し方のないことでしょう。
しかし、安土桃山以降は比較的演劇化されやすい傾向にあり、
五百年の月日は私達にとって馬鹿にならない意味を持っているようです。
分倍河原の戦闘に敗れた新田義貞一行によって、一度は「焼却処分」されてしまった国分寺ですが、
時を経て蘇った際にも「真姿の池」は段丘下の湧き水を湛えていました。
歴史に空白はあっても、自然の営みは一貫しています。
そう簡単には想像の及ばない遥かな過去から、清水は湧き続けています。
時を超え 昭和に刻まれた謎
天平の世に栄華を誇った武蔵国分寺ですが、ブラタモリでも紹介されたように、
今では礎石だけが残り、実にオープンな環境でその名残に触れることが出来ます。
また、この周辺は「昭和史に残る大事件」の舞台でもあります。
国分寺跡の広場から南西方向に眼をやると、ひときわ目立つ建物が見えます。
「東芝府中事業場」です。
今から48年前の1968年12月、この事業場で働く人達のボーナスが、
現金輸送車ごと奪われた、あの事件です。
再来年には「50周年」を迎える3億円事件は、まさにこの地で行われたのです。
公訴時効を迎えた時も、社会的に大きな話題となりましたが、
それよりも遥かに長い時間が過ぎて、この年月こそが、
「戦後最大のミステリー」と言われるこの事件に、
一定の解答を示すことになるのではないかと思えるのです。
「50年の月日」が何を証明することになるのか、
多摩の歴史に特筆されるこの事件について、
このブログでこれから何度も取り上げる話題になりそうです。
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