JR中央線、三鷹~立川間が高架化されて6年、
多摩を南北に分断していた線路が持ち上る事で、
長年期待されていたような「経済効果」は、
果たして実現しのかどうかは誰にも分かりませんが、
危険な踏切が無くなったのは事実です。
元々、国分寺-国立間は昔から掘割の立体交差で、
踏切は存在しないと思われていたようですが、
それは間違いです、超危険な踏切がありました。
私も遠く幼い日に、渡った記憶の有る踏切。
その事実を知る一枚の写真が見つかりました。
”勝手踏切”というローカルルール
上の写真は昭和27年に撮影されたものらしいのですが、
国立駅から東へ500mくらいの所だと思います。
私もこの「渡り板」の存在をはっきりと記憶しています。
台地になっている国分寺市にそのまま線路を敷設すれば、
国立駅間で相当なアップダウンがついてしまいます。
明治22年に甲武鉄道として開業した頃は、まさにそのアップダウンに苦しめられた機関車が、
国分寺駅を過ぎたあたりで後ずさりする光景が、しばしば目撃されていたとのことです。
国有化され、複線化された昭和3年には、この掘割が完成していたものと思われますが、
国分寺-国立間の南北交通は、小さな陸橋が4か所ありました。
いや、正確には5か所だったのかも知れませんが、私の知る限り1か所は既に取り外されていました。
元々の「地割り」が、江戸時代の新田開発によるため、生活道路は線路と並行していません。
始めは農道だったであろう道路が、ほぼ一定の角度を持って線路と交わる「陸橋」になっています。
府中街道よりもやや西側に住んでいた私達家族は、昭和48年に西国分寺駅が開設されるまでは、
もっぱら国立駅を「最寄り」としていましたが、今にして思えば不便この上ありませんでした。
道なき道を往く国分寺町民
線路と並行した道が無いということは、駅までの道のりはジグザグとなって、
歩行距離は直線距離の倍近くになってしまいます。
私の父は毎朝、国立駅から電車に乗って三鷹まで通勤していました。
その「通勤路」を私も家族と歩いた経験があります。
昭和41年の夏の事でしたが、まだ開業して間もない新幹線に乗せてもらえるという事で、
大はしゃぎしていたせいもあり、その時のことをはっきりと記憶しています。
自宅から国立駅までの道のりの半分は「道なき道」だったのです。
なるべくショートカットすべく、雑木林の中を斜めに突っ切り、線路きわまで畑を横切ったりと、
今ならモラルを問われるような行為ではありましたが、
不思議と何処も歩きやすく踏み固められた場所でした。
線路を挟む掘割の上の道も、今ではもう無くなっていますが、あれも多分畑の中。
国立駅へ向かって崖線を下る坂道も、まるで獣道のようでした。
そこに、問題の「踏切」があったのです。
「踏切道」には種別があります。
第1種 自動式の警報機、遮断機があるもの
第2種 一定時間帯のみ、保安係員が遮断機を操作するもの
第3種 警報機のみで、遮断機のないもの
第4種 警標のみで、警報機、遮断機のないもの
さて、最初の写真を良く視て下さい、
渡り板の向う側に、何やら立看板のようなものが見えますね。
もしあれに、「とまれみよ」などの文言が書かれていれば、第4種ということになりますが、
「線路内立入禁止」などと書かれていれば、それは「事実上の踏切」ということになります。
実際どのように書かれていたのか、そこまでの記憶は全くありません。
線路内に明らかな「渡り板」が存在することから、私は第4種だと思うのですが、
正式には「保線のための設備」ということも考えられます。
つまり、「事実上の踏切」とは「勝手踏切」のことです。
地元住民によって地理的利便性が優先され、勝手に踏切化された場所のことを指します。
危険極まりない行為であるように思えますが、あの「江ノ電」には百か所近くあると言います。
TOKYO 1964 に沸き返った頃
私がこの踏切を渡ったのは、東京オリンピック開催の2年後ですから、
日本は高度経済成長に向けて猛ダッシュを開始した時代ということになります。
小さな警標しかなかったこの踏切は、中央線という通勤幹線でもありました。
誠に無謀この上ないことですが、渡った記憶はこの時が最初で最後であったのもまた事実。
「第4種」だったのか、「勝手」だったのか、今となっては調べようもありません。
国分寺-国立間に現存した「幻の踏切」です。
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