立川に陸軍飛行場が建設されたのは大正11年。
現在の立川駅周辺の商業地域は、
その軍需によってきっかけを与えられ、発展しました。
一方市内北部は玉川上水によって江戸時代より開拓され、
近代では「砂川闘争」に代表されるように、
多くの農家によってその地盤が形成されて来ました。
五日市街道沿いは、旧街道の面影を今に遺す貴重な景観が、
あちこちに散見され、多摩の古き良き姿を感じることが出来ます。
旧街道の面影 五日市街道
五日市街道を西へ向かって走ると、国分寺市を過ぎたあたりから年代物と思われる土蔵を、
街道沿いに沢山見ることができます。
天王橋を過ぎて昭島へ向かうと、樹齢の有りそうな屋敷林が、
まるで並木道のように街道に並んで見えます。
多分、享保の改革で五日市や青梅あたりからこの地に入植した人たちの末裔なのでしょう。
1654年に完成した玉川上水に沿って、真っ先に開墾の鍬が入れられたはずですから、
五日市街道は江戸と水源地を結ぶ流路に沿って、人荷を運ぶ重要な交通路だったのでしょう。
幸いにして現代の交通インフラは、このラインにそれほど依存していないため、
五日市街道周辺は古くからの歴史景観を辛うじて留めているのだと思います。
しかし、小金井市あたりから都心方面に向かうと、
拡幅事業による用地買収が着々と進んでいるように見えます。
やがてその波は小平市を超えて、西方へと波及するでしょうから、
その景観も今のうちなのかも知れません。
立川市幸町に地元の古い民家を移築して、自由に見学できる場所があるというので、行って来ました。
まず私の目に付いたのは、懐かしい縁側です。
重厚な茅葺屋根も去ることながら、この縁側こそが日本の住まいの基本ではないかと思えるのです。
インドアとアウトドアとの境界が、
厳重なロック付き玄関扉で完全に区切られている現代の住宅事情は、
そのまま社会事情を反映しているということになります。
私が子供の頃は、やはり縁側のある小さな一軒家に住んでいました。
縁側からそのままシャボン玉を吹いたり、冬には陽だまりで犬と一緒にうたた寝をしたり、
狭い家でも外気、陽光との接面は非常に広いものがありました。
薄暗い土間に入ると、古い民具がそのまま展示されていて、とても懐かしいものを感じます。
昔、母の生家で同じような光景を眼にしていたのを、やっとその時思い出しました。
キッチンは土間だったんですね。
間取りは5LKということになります。
リビングに相当する床張りの間には、趣ある囲炉裏が切られていて、
「こんな家に住みたい」と、単純な欲求も膨らんで来てしまいます。
パンフレットを見ますと、縁側に面したメインの座敷よりも、奥の間に特徴があるらしいです。
床の間、違い棚、書院などの座敷造りが武家屋敷の様式に匹敵するものだそうで、
一介の農民が何故このような屋敷を構えるに至ったのかはまったく不明です。
同じ敷地内にはやはりこの地域に特徴的な土蔵が移築さてれいます。
真っ白な外壁が印象的で、分厚い扉が「らしさ」を醸し出しています。
江戸から明治にかけて地元で質屋を営んでいた旧家の土蔵だそうで、
珍しいことに「3階建て」なんだそうです。
当時はさぞかし貴重なお宝で埋め尽くされていたに違いありません。
屋敷と云い、土蔵と云い、広い土地と資金がなければとても維持できるものではありませんが、
この辺りは立川市内でも特に田園が多く残っているところです。
それでも近年少しずつ、宅地開発が進んではいるようですが、玉川上水が近くに流れている関係で、
他の地域程の「乱開発」は多分出来ないものと思われます。
住むにはとても良い環境が手に入りそうな地域であると思われます。
関連リンク
ゴジラはどこ行った?
この古民家の向かいに、「ゴジラ」が居たのですが、御存知でしょうか?
GoogleのMAPをよく見て戴くと、確かに奥の駐車場から歩道を睨んでいますね。
いつもここを車で通るたびに気になっていたのですが、
いつのまにかそのゴジラが居なくなってしまいました。
近くには中学校があるくらいで、まさかクレームが付いたとも思えませんが、
一体どこへ行ってしまったのでしょう?
「立川不思議発見」で一記事書けると思っていたのに・・・、残念です。(;´д`)トホホ
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