太宰治が癒された景色 三鷹

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冬場はやはり富士山の話題が多くなるように想う。
中央線三鷹駅の西側にある年代物の跨線橋も、
多摩地域では有名な「富士山スポット」である。

しかし老朽化によって解体されることになってしまった。

カメラを構えていると、ふと後ろから声が聞こえた。
「君も電車オタクなのかね?」
振り向くと、そこに居たのは和服姿で懐手した「あの男」。
いや、それは錯覚で、幼い子供と若い母親。
私が自撮り棒の先に装着していた「360°カメラ」を見て、
「ママあれなあに?」と言っていただけだった。
にしても、本当に太宰が現れそうな気配がする、不思議な跨線橋である。

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富士には、中央線がよく似合ふ

アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。
小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。

富嶽百景より

太宰もよくここから電車を眺めていたという。
大正11年には既に電化されていたとはいえ、終戦直後の昭和20年代、
少し粘れば、黒い煙を吐いて走る機関車も眺めることが出来たに違いない。
「頑張れ、頑張れ」と励ますように走る機関車の姿が懐かしい。
電車の走行音も現代のものとは異なっていた。
「吊り掛け式」と呼ばれる甲高いモーターの駆動音は、
「わあ、大変だ、大変だ」と、幼少時の筆者の耳にはそう聞こえていた。
それに引き換え現在のインバーター制御の電車は、どこかよそよそしく素っ気ない。
太宰もさぞ訝しがって、「シカトをツッかまされているようだね」
と、呟いたに違いない。
それでも、もし筆者が幼少期三鷹に住んでいたとすれば、
この跨線橋に、三×七=二十一日間通っても、決して飽きることが無かっただろう。

三鷹と言えば、「無人列車暴走事件」が起きたのも、丁度この場所である。
当時、人員整理を進めていた国鉄の労働組合(国労)の組合員による謀略とされ、
後に「三鷹事件」として、戦後の暗い世相に、更なる暗い影を落とした。
太宰が自らその生涯を終えた、その翌年の出来事である。
因みにこの跨線橋が建造されたのは昭和4年で、もっと長い歴史の目撃者である。
正式名称は「三鷹電車庫跨線橋」、または「JR東日本三鷹車両センター跨線橋」。
いつまでも変わらず、このままでいて欲しい、多摩の「歴史建造物」である。

「三鷹事件」の報道写真、跨線橋もしっかり写っている。 Wikipediaより

ハチミツに架かる橋

「ママこの電車、ハチミツがかかってるの?」
と、問いかける子が居たら、間違いなく天才的「鉄道オタク」の素質がある。
正しくは「八ミツ」で、良く見ると電車の横っ腹に印字してある。
「JR東日本八王子支社三鷹車両センター」の略号で、
国鉄時代は「西ミツ」だった。(東京西鉄道管理局三鷹車両区)

多摩地域には同様に、「八ムコ」もあれば「八トタ」もある。
前者は武蔵小金井、後者は豊田の電車庫を指している。
特に「八トタ」は鉄道オタクの聖地と云われる「八トタカーブ」のある場所で、
クズ鉄(撮り鉄)が散らかすゴミや吸い殻で、近隣住民が悩まされているらしい。
そんなことはともかくとして、小さな子供に尋ねられたらキチンと教えましょう。
「電車にも帰るべき家があるのだよ」。

そんな「八ミツ」をひと跨ぎにするこの鉄橋の長さは90メートル。
これほど長い跨線橋は全国でも珍しいのではないだろうか?
子供はもちろんだが、鉄道好きの大人も是非一度は訪れたいところだ。
跨線橋から見る富士山もまた格別で、
どちらかというと、オレンジ色に染まる「夕景の富士」が好まれるようだが、
筆者はやはり朝の白い富士山が好きである。
太宰もまた然り、多摩から見る富士山は小さいが品がある。

今日は珍しく時間に追われていて、もっと沢山写真を撮りたかったのだが、
いずれまたゆっくり訪れようかと思う。 いや、その時にはもう無くなっているかも知れない。

 

東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。
冬には、はつきり、よく見える。
小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。
なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。

富嶽百景より

Post from RICOH THETA. #theta360 – Spherical Image – RICOH THETA

三鷹跨線橋からの360°ビュー

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